オダケの100年史 ODAKE'S 100-YEAR HISTORY

一軒の金物店からはじまった歩みは、家族の絆と仲間の力を原動力に時代を越えて受け継がれ、
全国へ事業を広げる企業へと成長しました。ここでは、創業から現在に至るまでの選択と挑戦、
そして創意工夫の数々を振り返ります。過去を紐解くことは、未来を描くこと。
これまでの軌跡に敬意を払いながら、次の時代への一歩をともに見つめていきます。

1926

創業期

オダケの原点となる「小竹商店」と「小杉商店」が誕生。
和洋折衷の文化が花開くなか、両家が力を合わせて店を切り盛りし、
鍋や釜などを扱う「まちの金物屋」として、
多くの市民に親しまれていった。

家族で築いた創業期

石川県金沢市出身の橋爪 直氏が小竹家に嫁いだことをきっかけに、昭和元年、富山市清水町で「小竹商店」を創業。家族一丸となり鍋釜などの家庭用金物の販売を開始した。

同時期に、当時16歳であった喜一氏(富山市上り立町の「和泉金物店」で小僧として修業中に義父が他界)が藤森家から小竹家へ養子入り。以降は家業の継承に励んだ。

翌年、直氏の姉・小杉 すて氏が嫁ぎ先の金沢市から家族とともに富山市材木町に移り、小竹商店と同じく家庭用金物を販売する「小杉商店」を創業。すて氏の息子・儀作氏(のちに小竹金物店の専務)も家業に携わるようになった。

その後、すて氏の娘・トメ氏が喜一氏と結婚し、両家の結びつきがより深まることに。昭和10年2月には両店舗が合併し、「合名会社小竹金物店」を設立。資本金は6,500円、代表は小竹 トメ氏が務めた。

1926年は昭和がはじまり、日本社会が新たな転換期を迎えた年でした。昭和天皇の即位により近代化の気運が高まり、前年開始のラジオ放送が急速に普及しました。都市部ではカフェー文化やモダンガール・モダンボーイの流行が広がり、西洋的で洗練された生活様式が浸透。都市文化が大きく発展したことを象徴する1年でした。

1945.9

戦後復興期

戦争で大きな被害を受けながらも、富山の地で再起を図る。
この頃には、建具・家具金物や現場・建築金物に加え、
吉田工業株式会社(現 YKK株式会社)との出会いをきっかけに
サッシ金物の製造・販売を開始。高度経済成長の波に乗り、
事業はさらなる上昇気流へと向かっていった。

富山大空襲後の再出発

昭和20年8月2日未明に発生した富山大空襲により、小竹家・小杉家ともに自宅と店舗を焼失した。その後、復興の様子を見ていた儀作氏が、戦争の影響で実家のあった高岡市に戻り農業を手伝っていた喜一氏に「富山に戻って、金物店を再開しよう」と声をかけ、両氏は再起を図ることとなった。

戦後復興期は、商品があれば何でも売れた時代であり、売上は好調に推移した。その好機を生かすべく昭和23年3月に合名会社の金物販売部門を分離し、営業を引き継ぐかたちで「株式会社小竹金物店」を設立。初代社長には喜一氏が就任した。

新生・小竹金物店のモットーは「安き店、信用ある店、金物なら何でも有る店」。戦災を免れた都市の金物問屋を巡り、現金で仕入れた商品を満員の汽車で運びながら、店舗や顧客のもとへ届け、業績を着実に伸ばしていった。

オダケの可能性を広げる出会い

富山市から「長年にわたり金物販売を続けてこられた小竹金物さんにも、ぜひ出展していただきたい」と勧誘を受け、昭和36年に開催された「富山市物産展」に出展した。その際に展示した製品が吉田工業株式会社(現 YKK株式会社)の目に留まり、これがのちにオダケの主力商品となる「サッシ金物」の販売へとつながるきっかけとなった。

当時、吉田工業ではアルミ室内建具の事業をはじめたばかりで、金物に関する知識を広く得たいとのことから、「いろいろ教えてほしい」と相談を受け、小竹金物店は金物面で事業立ち上げを支援。

その後、引き違い窓用のクレセント、戸車、クレセントストッパー、風止め板、引手などといった、アルミサッシ部品の開発・製造へと発展していった。

1945年、日本は第二次世界大戦に敗れ焦土と化しましたが、復興が進むなかで1950年代後半から高度経済成長がはじまりました。戦争特需や産業の近代化により家電普及と都市化が加速し、国民生活は急速に向上。1964年の東京オリンピックでは新幹線や高速道路が整備され、復興を果たした日本の成長を世界へ示す象徴的な大会となりました。

1965

事業拡大期

日本全体が活気にあふれ、建物や住宅の建築ラッシュが進むなか、
アルミサッシの普及とともに需要が急増。
販売拠点や商品ラインナップの拡大も加速し、
平成4年には年間売上が104億円を超え、社員数は185名に達した。

全国展開への礎

やがて、吉田工業によるサッシ部品の自社生産開始に合わせ、サッシ加工店向けの部品供給を担うことになったオダケは、サッシ金物の製造・販売体制をさらに強化する決意を固めた。

昭和45年1月、白銀町営業所からサッシ部門を独立させ、富山市問屋町の富山問屋センター連棟建屋にサッシ本部を開設。これにより在庫および流通機能の充実、販売体制の整備が進み、全国のサッシ加盟店との取引拡大を加速させた。サッシ本部を拠点に営業活動を推し進めたことで、現在へと続く販売基盤が築かれることとなる。

同年2月には関西営業所(現 関西支店)、昭和48年4月には関東営業所(現 関東支店)を開設し、事業を広域に展開。さらに昭和48年5月には、現社名の前身である「小竹金物株式会社」へと改め、創業の精神を受け継ぎながら、新たな一歩を踏み出した。

問屋町に新本社完成

富山市内に点在する5つの営業所(中央通本店、同支店、大泉営業所、サッシ本部、北陸営業所)と2つの倉庫(旧倉庫、第二倉庫)体制が長年続いていたが、ヒトやモノといった経営資源の分散が課題となっていた。

創業60周年を目前に控えるなか、各種機能の集約を図るべく新社屋の建設計画が始動。昭和59年10月に工事が着工し、昭和60年3月には現在の本社所在地である富山市問屋町3丁目10に本社屋が完成した。同年4月17日には、竣工披露宴を開催。多くの従業員や顧客、協力会社に見守られるなか、晴れやかな一日となった。

新本社は3階建、延床面積は7,283㎡。設計は押田設計事務所、施工は前田建設工業・第一建設JVが担当し、エントランスの大理石をはじめ多種のサッシはYKK製、金属工事は当社が手掛けた。

首都圏市場への拡大

東京ドームが完成した昭和63年当時、東京を中心に首都圏の建築市場はかつてない活況を呈していた。小竹金物もその流れを見据え、顧客企業の企画・開発部門が続々と東京へ拠点を移す動きに合わせて、同年5月に東京都足立区に「株式会社東京オダケ(現東京支店)」を設立した。

サッシ部門の販売と技術開発を軸に、地域や顧客に密着した提案型営業を展開し、金物販売の首都圏エリアでの基盤拡充を進めていった。

一方で、事業拡大にともない課題も生じ、特に施工機能の弱さが浮き彫りとなった。とりわけ金属工事や排煙オペレーター工事の対応体制強化が急務となったことから、当時の関東営業所と緊密に連携し、技術と施工の両面で補完を図ることで、顧客からの信頼確立へとつなげていった。

1965年以降の日本は成長と転換が交錯する時代でした。1960年代後半には高度経済成長が最盛期を迎え、1970年の大阪万博が未来への期待を高めましたが、1973・79年のオイルショックでは物不足や買いだめが起こり経済は調整期へ。1980年代には株や地価が急騰しバブルが形成。1989年に平成がはじまり、1991〜92年にはバブル崩壊が進んで長期不況へ向かうことになりました。

1993

転換期

バブル崩壊により建築市場の勢いが鈍化し、
その影響を受けて売上が大幅に減少。それでも前を向き続け、
吸収合併やM&A、営業拠点の開設を積極的に進めることで、
全国により強固な事業基盤を築いていった。

オーテック工業の設立と発展

平成に入ると、ビル用アルミサッシに付随する曲物のオーダー加工ニーズが増加。当時は協力工場への委託製造で対応していたが、需要の拡大にともない、製販一体による体制強化を目指して2社目となる自社工場の設立を決定した。

こうして平成5年4月19日、富山県中新川郡立山町に「オーテック工業株式会社(現 富山工場)」を設立。高品質なオーダー対応を続けることで信頼を高め、需要拡大を見据えて事業を推進した。

しかし、市場の低迷や建築価格の下落が続き、約20年にわたり厳しい時期が続く。その後、平成23年3月に工場を統合して1工場体制とし、令和元年には小竹金物本体へ吸収合併。

これにより製販一体化がさらに進み、売上高も平成6年9月期は2億8,000万円から令和5年3月期には6億6,500万円へと成長。社内外で存在感を放つ重要拠点へと発展した。

事業継承で築く新基盤

平成21年、小竹金物は九州地区において大きな転換期を迎えた。

当時、同地区で競合関係にあった福岡県福岡市の「株式会社アオヤギ」から、組織としての永続的な発展を見据えた事業承継の相談を受ける。アオヤギは地域に根差した堅実な営業活動を展開しており、小竹金物とは販売先や取扱製品など多くの共通点を有していた。小竹金物としても、両者の強みを融合することで九州地区での事業基盤を一層強化できると判断し、慎重な協議を重ねた結果、同年4月13日に全株式を取得し、アオヤギを子会社化した。

さらに平成22年3月には、事業運営の効率化と地域基盤のさらなる強化を目的に小竹金物本体へ合併。アオヤギのオフィスに同居していた福岡営業所を福岡支店へ昇格させた。これを契機に九州地区は売上を伸ばし、令和5年9月に自社ビルを構えるまでに成長。さらなる飛躍に向け、歩みを進めている。

1993〜2010年の日本は生活環境が大きく変化しました。90年代後半にはインターネットが家庭に普及し、メールや検索が日常化。携帯電話も急速に広まり、2000年代にはカメラ付き端末やiモードが登場して通信が一変しました。1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに防災意識が高まり、2008年のリーマンショックは景気後退を招きつつも、コンビニエンスストアの拡大やICカード普及で日々の暮らしは便利になりました。​

2011

躍進期

支店事業部制から本部制への移行や人事評価制度の見直し、
「オダケ」への社名変更やロゴマークの策定など、
さまざまな経営改革に挑戦。気候変動や人口減少といった
これからの市場動向を見据えながら、
売上100億円企業への返り咲きを目指して突き進んでいる。

ブランド刷新と新たな挑戦

平成28年6月、4代目社長として土田 秀彰氏が就任。前職であるYKK APで培った豊富なコーポレートマネジメント経験を生かし、経営基盤の再構築と組織化を一層推進した。

支店事業部体制から本部制への移行、株主構成の見直しや従業員持株制度の導入、人材育成制度の整備など、持続的成長を見据えた改革を次々と実行。令和2年4月には社名を「株式会社オダケ」へと変更し、金物の枠を超えた事業領域の拡大と、富山の老舗企業から全国で活躍する企業への飛躍を目指した。

あわせてコーポレートロゴの刷新やコーポレートカラー「オダケブルー」の制定など、ブランディング強化にも着手。新たな時代にふさわしい企業像を掲げ、信頼と挑戦の精神を受け継ぎながら、社員一人ひとりがその志を胸に未来を切り拓き、オダケの新たな歴史を紡いでいる。

2010年以降の日本では、スマートフォンとSNSの普及を背景に、情報収集や連絡、買い物など日常行動がオンラインへと移り、生活のデジタル化が進みました。そうした中での2011年の大震災は、広域の被害と長期の避難をもたらし、日々の暮らしの前提として防災や備えを見直す契機となりました。さらに2020年の新型コロナウイルスの流行は、人々が公衆衛生を考え直すきっかけとなり、在宅化やオンライン利用を一段と加速させ、消費や働き方の変化を日常に定着させました。